2011年3月11日は寒い日でした。
冷たい北風が吹きつける曇りの日。
冷たい北風が吹きつける曇りの日。
小さい頃からいやなことがあると、天災が起きたらどうなるんだろう、などと暗い考えを持つことがありました。
小さい頃は、学校が火事で焼けちゃえば学校ないのに、というレベルの幼い空想でした。
大人になっても自分では避けえない嫌な事に直面した時、程度の差こそあれ、似たような空想をしたことはありました。
でも、それはつかの間心を逃がすための空想に過ぎないはずでした。
そしてあの日、本当にそれは起きました。
小さい頃は、学校が火事で焼けちゃえば学校ないのに、というレベルの幼い空想でした。
大人になっても自分では避けえない嫌な事に直面した時、程度の差こそあれ、似たような空想をしたことはありました。
でも、それはつかの間心を逃がすための空想に過ぎないはずでした。
そしてあの日、本当にそれは起きました。
当たり前ですが、私が空想したところで震災が発生するわけではありません。
でも、起こらないことだからこその空想だったはずですが、実際に起きてしまうとその空想をした経験自体に罪悪感を感じることとなりました。
でも、起こらないことだからこその空想だったはずですが、実際に起きてしまうとその空想をした経験自体に罪悪感を感じることとなりました。
自分が逃げたい事から逃げられないからする空想。
誰かが今でも言うことがあります。
誰かが今でも言うことがあります。
「台風が直撃して会社が休みになれば良いのに」、そんなたわいのない空想でも本当に起こったら誰かが悲しむ事が必ずどこかで起きる。
間接的でも誰かが悲しむ様なことを望む。
それがたとえ単なる空想だとしても、考えすぎだとしても、私にはそんな空想はもうできません。
行動をする代わりに破滅的な空想などをする自分は最低でした。
間接的でも誰かが悲しむ様なことを望む。
それがたとえ単なる空想だとしても、考えすぎだとしても、私にはそんな空想はもうできません。
行動をする代わりに破滅的な空想などをする自分は最低でした。
それから与えられた生を暗い空想をして浪費するのはやめにしました。
生きている私にはできる、震災で夢も希望も全て途中で理不尽に奪われた数多くの人に比べたら。
生きている私にはできる、震災で夢も希望も全て途中で理不尽に奪われた数多くの人に比べたら。
私にはできるはず、自分で自分にタガを嵌めているだけ。
そう考えて新たに動き出してから6年。
まだまだこれから。